DX Chineseでは、前日にレッスンご案内メールをお送りします。
     その際、論語の解説と中国語音声・日本語音声をお送りしています。



     レッスン終了の翌日には、レッスン進捗表と一緒に「漢詩」や「成語」の
     解説と中国語音声・日本語音声をお送りしています。





< 論語は私の実践上の大指針である >

 故に論語を哲学的観察から言へば、哲学的ではないと言はれるが、機に臨み変に応じての批評のあるのは論語の面白い処でもあり、又論語としての価値ある所以でもある。然らば之れを吾人の日常の行動、即ち実践の上にはどうかと云ふに、私の考へる処によると何人でも論語の教へる処を服膺して行けば、その行為に於ては決して大過はないものと思ふ。若し論語にして宗教にあつたならば、バイブルとして尊重されたかも知れない。私は宗教が嫌ひであるから宗教の必要をも感じないのみでなく、この論語があるので尚更宗教の必要はない。殊に私の宗教を嫌ふ所以のものは、その事柄の奇蹟的であることである。中に阿弥陀に願つて救つて貰ふと云ふやうなことを云ふが、何も阿弥陀に願はなくとも人として善い事をすればよいではないか。人の本分を尽せばよいではないか。その人の本能を十分に発揮して自己の利益ばかりでなく、国家、社会の為めに尽せばよい。人の本分を尽して居れば、何も宗教によつて助けて貰ふことも救うて貰ふ必要もない。論語の学而篇に「為人謀而不忠乎。与朋友交而不信乎。伝不習乎」とあるは、個人として将又社会人としての道を説いて居る。而も宗教の如く奇蹟的でも何でもないことなどから見ても、論語は如何に実際的であるかを推知することが出来る。





渋沢栄一氏の演説






       


演説の一部が聞けます


= 演説の内容 =

世の中がだんだん進歩するに従って、
社会の事物もますます発展する。

ただし、それに伴うて
肝要なる道徳仁義というものが、ともに進歩していくかというと
残念ながら「否」と答えざるを得ぬ。

およそ国家は、その臣民さえ富むならば
道徳は欠けても、仁義は行われずともよいとは、
誰もいい得まいと思う。

仁義道徳と生産殖利とは、
元来ともに進むべきものであります。

     





【渋沢栄一「実験論語処世談」】
https://eiichi.shibusawa.or.jp/features/jikkenrongo/index.html

 渋沢栄一(しぶさわ・えいいち、1840-1931)は、幼少の頃から『論語』に親しんでいましたが、実業に従事するようになった1873(明治6)年以降、『論語』を人生の指針としました。栄一の事績に関する資料集『渋沢栄一伝記資料』の中には、『論語』について語ったものが数多く収載されています。
 その中のひとつ、「実験論語処世談」は1915(大正4)年6月から1924(大正13)年11月にかけ雑誌『実業之世界』に連載され、ほぼ同時期に竜門社の機関誌『竜門雑誌』に転載された栄一の談話筆記です。論語章句と読み下し文に続いてその解釈が語られ、多くはその後に実体験(実験)に基づく処世談が掲載されています。話はおおむね論語の篇章順に進められますが、残念ながら連載は「衛霊公第十五」の途中で途切れてしまいました。
 連載中の1922(大正11)年には、それまでの記事をまとめた書籍版『実験論語処世談』が刊行され、後に多くの版を重ねました。



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渋沢栄一氏






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